感動の裏で考えたこと ― 平野歩夢選手の復活劇と、メディカルとしての視点

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整形外科を専門とする理学療法士、女子バスケットボールチームのチームトレーナーとして活動している立場から今回のオリンピックの出来事について考えてみます。

平野歩夢選手の劇的な復活は、多くの人に勇気と感動を与えたと思います。
骨盤骨折という大きな怪我から短期間でオリンピックの舞台へ戻り、世界の中で戦う姿は、本当に凄まじいものでした。純粋にアスリートとしての強さや覚悟には、心から敬意を抱いています。

ただ一方で、私は理学療法士という医療者として、そしてバスケットボールチームに関わるトレーナー・チームスタッフとして、別の視点でもこの出来事を見ていました。

一生に一度あるかないかの大舞台。
そこに挑みたいという選手の気持ちは、理解できます。

オリンピックという舞台。世界の頂点に立ち、金メダルを獲得した選手の覚悟や心境を、常人である自分が「理解できる」と軽々しく言えるものではないのだと思います。

外から見ているだけでは計り知れない重圧や、そこに至るまでの年月、そしてアスリートとしての人生がある。
だからこそ、その決断の重さを単純な言葉で語ることはできないし、安易に評価するべきでもないと感じています。

「可能性が1%でもあるなら出たい」
その言葉は決して特別なものではなく、多くのアスリートが胸の奥に持っている感情だと思います。

だからこそ、その意思を簡単に否定するつもりはありません。

同大会女子アルペンスキーの実例から

同大会の女子アルペンスキーでは、重度の外傷を抱えながら大舞台に挑んだ結果、深刻な状態に陥ったケースが報じられました。

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https://news.yahoo.co.jp/articles/9e19dc312ea33c3743df2da7e395bd414c5f3596
前十字靭帯断裂という大きな怪我を負った状態で出場を決断したリンゼイ・ボン選手のケース

大会の約1週間前、ワールドカップで左膝前十字靭帯断裂などの重傷を負いながらも、「逆境が大きいほど自分の力を引き出せる」という思いで五輪出場を選択。予選ではスタートからわずか13秒で踏ん張りが効かずに転倒し、身体を雪面に激しく打ち付け、左足脛骨の複雑骨折を負いました。自力で立ち上がることができず、ヘリコプターで救急搬送され、その後すでに3度の手術を受け、さらに追加手術も予定されています。

専門医は、競技復帰以前に「まずは足を残して歩けるようになること」が目標だと指摘し、感染や壊死のリスクを伴う極めて厳しい治療段階にあること、場合によっては切断の可能性もあると述べています。

きっと現場では多くの話し合いが重ねられ、選手本人も納得したうえでの決断だったのだと思います。結果論であり、もう誰も責めるべきではない。それでも、もし彼女がこの先、歩けなくなるかもしれない。足を切断することになるかもしれない。「本当に止められなかったのか」と自問する関係者がいるのではないか――そう考えさせられる出来事でした。きっと現場では多くの話し合いが重ねられ、選手本人も納得した上での決断だったのだと思います。

「トレーナーストップ」に対する発言を聞いて感じたこと

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谷繁元信、“トレーナーストップ”に思うこと「全球団そうかは分からないんですけど…」 ラミレスも同意「いい指摘だと思います」(マイナビニュース)
元プロ野球選手で野球解説者の谷繁元信氏が、YouTubeチャンネル『名球会チャンネル』で公開された動画に出演。“トレーナーストップ”について持論を述べた。谷繁元信、今季成績を落とした戸郷

オリンピックの話から少しそれますが、

最近、元プロ野球選手による“トレーナーストップ”に関する発言が話題になっていました。
要約すると、「最終的に結果が自分に返ってくるのは選手なのだから、出るかどうかは本人が決めるべきであり、トレーナーが止めるなら将来の責任を取れるのか」という趣旨の内容でした。

正直に言ってしまうと、私はこの考え方には強い違和感があります。

なぜなら、それはメディカルスタッフへの責任転嫁であり、決してフェアな構図ではないと感じるからです。

メディカルスタッフは“責任を取る人”ではなく、“リスクを評価する人”

まず大前提として、怪我の責任は誰にも完全には取れません。
選手本人でさえ、未来の結果に対して絶対的な責任を背負えるわけではない。

メディカルスタッフの役割は、選手の人生をコントロールすることではなく、

  • 医学的リスクを評価し
  • 状態を客観的に伝え
  • 危険域に入っている場合はストップを提案する

ことです。

それは「責任を背負う行為」ではなく、
専門職としての義務です。

「将来の責任を取れるのか」という問いは、一見もっともらしく聞こえますが、本質的には論点がズレていると思います。

では、起用する側の責任はどこへ行くのか

もしトレーナーが止めるなら責任を取れというのであれば、
逆に聞きたい。

状態が悪いまま起用した場合の責任は、誰がどこまで負うのでしょうか。

  • 悪化した怪我
  • パフォーマンス低下による評価の下落
  • キャリアへの影響

これらは現実に起こり得るリスクです。

それにも関わらず、「最終的には選手の自己判断」と言ってしまうのは、
指揮官や組織側の意思決定の重さを軽くしてしまう危険な考え方に感じます。

止める側だけに倫理を問い、出す側の覚悟を語らない。
それではバランスが取れていません。
もし「予測できる結末」が存在するのであれば、
最終的な判断を選手個人の意思だけに委ねることは、本当に“尊重”と言えるのだろうか。

怪我の責任は、誰にも完全には取れない

怪我の責任は、本来誰か一人に帰属できるものではありません。
未来は誰にも分からず、因果関係も事後的にしか語れない。

選手ですら、そのすべてを背負えるものではないと思っています。

だからこそ、「止める側は選手の人生に責任を持てるのか」という言葉だけが強調され、
起用する側の責任が語られないのだとしたら、それはフェアではないように感じます。

Return to lifeを守る視点

競技は大切です。
結果も、キャリアも、もちろん重要です。

でも、選手の身体や人生より優先されるものではない。

だからこそ、メディカルが「ノー」と言う場面がある。
それは選手の可能性を奪うためではなく、未来を守るためです。

フェアであるために

もし本当にフェアに議論するのであれば、

  • 止める側の責任
  • 出す側の責任
  • そして選手自身の意思

すべてが同じ土俵で語られるべきだと思います。

平野歩夢選手の挑戦には、心から「感動をありがとう」と伝えたい。
ただ、その感動の裏側にあるリスクや葛藤にも目を向け続けることが、メディカルとして、そしてチームに関わる一人としての責任なのではないかと感じています。

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